文化・芸術

2009年6月30日 (火)

良い本と出合った

「森のゆくえ」 浜田久美子 副題が「林業と森の豊かさの共存」となっている。

 2006年の初版というから、それほど新しいといえる本ではないのだろうけれど、読み進むうちに、ちょっと感動してしまった。

 林業については素人だった著者が10年の研鑽の区切りとしてまとめたものと言うが、確かに日本の森の今の姿と行く末とを思いやる姿勢から産み出された書なのだろう。
 専門家の著作にありがちな持論・感性の押し付けに陥ることを避け、普通人らしく慎ましやかな語り口はあくまでやわらかく、丁寧に多くの示唆を織り込んでいる。

 なまじ余計な事は言わず、ただ『こういう良い本がある』と紹介するにとどめるのが正しいマナーかも知れない。

 

自分も里山の景色や木々に惹かれていつの間にか森林ボランティアに参加したり、時に和製アーボリストを気取ってみたりもするのだが この「日本という環境」の中でこれから何ができるか、みな何をしようとしているのか、私は何をすべきなのか、もしかしたらその答えの一端を(全部ではないですよ)この書の中に見出してしまったのかも知れない。

 なんちって ヾ(´ε`*)ゝ

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2009年1月29日 (木)

何が嬉しいのさ? (090201補記)

 ヨーロッパでの海賊や海洋支配帝国の歴史をみれば当たり前の話だと思うんだけど、ヤマや木に登る道具について海のものを調べる ってのは意外性があって面白い と言うひとも、世の中、結構居るみたいだ。

 実際にロープのアイ・スプライス技術の権威(マスター・リガー)はヨットマンだし、長年海水に曝されて網としての強度を保持することの重要性は魚網において切実だというのは誰もが納得する話だろう。

 具体的にロープの場合、安全係数と破断現象に至る確率の関係がロープメーカーによって示されている。 経年劣化や暴露テストの成果についてはクライミング関連メーカーの情報よりもむしろヨット関連商品や魚網製造会社などのデータを参考にしたほうが、ずっと価値ある情報を見出すってこともある。

先日来、あれやこれや細かい安全規格にからんだ話についてブログってきたんだけれど、結局南極、それを知って何が嬉しいのか? って点がちょっと曖昧だったかもしんない。

 んでもってからに・・・

 実は、今朝、偏頭痛とメマイに襲われて半日家内に心配をかけてしまった。

 吐き気と頻発アクビと冷汗と眩暈と。

 数日前の偏頭痛を思い合わせれば、ごく常識的には脳味噌に何か問題が起きているんぢゃないかと心配になる。 
 確かに問題の多い脳味噌ではあるんだけれど・・・って、しばらくほっといて欲しいんだよね。 ひとりオチで余計に落ち込んでしまうから。

 まだまだこれから遊ぼうっていう人生の一番大事なときに(←いつも都合よく、今が一番大事な時期だ と自分に言って聞かせてきたような記憶もないわけではないけど・・・) なんだ面白い人生、もうこれでオシマイかよ・・・ なんて事を本気でぇ~考えたりぃ~したぉ (^^;

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2009年1月26日 (月)

生きているうちに読んでおくべき本・・・ って?

数え上げればキリが無いんぢゃないだろうか。
 学生時代には岩波新書や文庫本やらを100冊あつめて夏休みの間に全部読破する・・・なんてことに挑戦したこともあったけど、結果、あんまし賢くなった気がしないんで、そーゆー遣り方には何かしら抜けているものがあるんだろうと思ったりする。

 柳田國男さんや宮本常一さんなどは実に多量の文書を残した訳だが、実際に全集なども文庫版で本棚に積んであったりするんだけれども、2回以上読み返したり、内容がちゃんと記憶に残っている作品なんてのは実に寡ないものだ。

 文系の文章を受け付けない偏った理系のアタマにでもなっているのかというと、そんなこともなくて。 たとえば理系なら寺田寅彦の全集なども本棚に積んであったりする。

 ただ、買ったのはいいけれど、そのエッセイの足尾鉱毒事件の世相にふれる記述の中で、

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2009年1月20日 (火)

ANSIって、工業規格? 補記(090120)

 ANSI ( American National Standard ) アメリカ標準規格とでも訳するのが普通なんだろうが、現役のころはアンシーと読んでISOやJISなどと同じようなものと位置づけ理解してきた。

 このANSIの規格がよくアーボリスト関連の書籍やインストラクションDVDなどの中でロープなどの安全使用範囲やら樹木剪定の方法などにからんで言及されている。

 だけど、ちょい待ち。

  JIS規格で植木の剪定について記述しているなんて話聞いた事がないし?

 

Photo_2

 一般に販売されるトラックロープでも、それが何トンまで切れずに使えるかを示している事って稀だと思うけど、通販などで海外の製品を調べてみれば、逆に、そういう安全使用範囲を示していない製品を探すことが難しいってこともあるし?

 まあ、40cc未満のチェンソーでは国際的な安全規格を適用されず、チェンブレーキを装備しない製品が量販店で自由に販売されていることなども考えあわせると、JISやら何やらの規格の存在自体、どういう価値があるんだろうか? と半ば諦めににた疑問が頭をもたげてくる。

 倒錯した見方が好きで、西欧の人間は皆アホばかりだからそういう規格値をちゃんと明示しておかないと事件事故ばかりになってしまうが、日本では耐荷重などの規格値なんか明示しておかなくても、使うのは皆わかっている人たちばかりだから心配しないでいいんだYO って言い出しかねないのも居るみたいだ。

 40年ちょい昔、まだビデオテープがオープンリールだったころ、各メーカーの独自規格のテープフォーマットを互換するため「統一1型」という国家基準を定めようとする会議の委員メンバーの中に混ぜられたことがあった。
 まだ下っ端で使い走り程度のことでしかなかったけれど、当時はなんとなくも晴れがましくも、日本のため~ とでもいうような、なにか使命感みたいなもの、を能天気にも感じていたりしたもんだっけ。

 VTRでもカセット式が出現し、統一1型なんて言葉がさっさと洗い流されて行ったころ。 役人も企業も右肩上がりの世界観を共有し同じような夢を抱いていたような記憶というか、錯覚というか、そういうものが懐かしく思える。

ところで林業の世界では、あの古臭い統一1型の夢さえ、まだ芽生えてもいないのだろうか?

なんでこんな佛草ブログを書いたのかってえと~  ですね・・・

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2008年12月 9日 (火)

最初の一歩から

山林作業の安全と効率について、最初の一歩から修行をやり直してみたくなった。
 2001年(だったかな)に川越市主宰の市民大学講座で座学中心の緑のサポーター年間研修をうけ、東大で開催された最初の「子ども樹木博士」イベントのオブザーバーから入 り込んだ 樹木との係わり合い だった事もあって、農用林として位置づけられるべき<「里山」と人の履歴>への関心が深かった。
 単なる老人仲良しクラブの域から出ようとせず、徒にヤマに入り込んで林床を踏み荒らすだけのその種の活動から離れ、山林・林業に目を向けるようになったのは埼玉の官製NPOに参加するようになってからのことだ。
 その山林業と農用林(里山)施行との境界線の上で、幸い今日まで無事に遊ばせてもらってきたのだけれど、安心して施行を任されるようになると、経験を補う「知識」に根拠を求めることが多くなってくる。 どうしても。

 たんなる役所の動員員数あわせに駆り出されるNPO活動に混ぜてもらうってのも悪いものではないと思うが、それだけで満足できる訳はない。 まして間伐はチェンソー禁止、手鋸だけで20cm径に近い伐採までやるんだとなると、これはもう運営側が参加者をバカにしているとしか思えないわけで。 ま、一部、その見解に同意できる部分もあることはあるんだけれど。

閑話休題(それはさておき)

 里山清掃奉仕の仲間に引率してもらい、先日訪問した小石川植物園で1本のコナラの見事な紅葉をみてしまったのだが、自分もこういうヤマを護る作業をやってみたいナァなどと、まるでガキみたいに熱く思い込んでしまったり・・・ している。 
 まったく、歳甲斐もなくあれこれ浮ついた嫌な爺さんになったもんだ。

 まあ、話はそれだけでなくって、本職林業の世界を少しでも深く知っておきたいという思いいれもあるもんだからね・・・ 受講してみることにしたITMの寺子屋StepUp実務講座。

 年内は講座前半部に申し込みを済ませた。 年明けてからまた別個に後半企画に申し込むつもり。
 さて、この爺さん、口で言うとおりあちこちに首突っ込んでひとつでもやりとおせるものかどうか。  我乍ら見ものだゎ と半分笑ってしまっているんだけど  ( ^ω^ )

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2007年7月30日 (月)

原爆と地雷と割り箸と

いささかフザケ過ぎた表題なのかも知れないが、混迷した今の日本では、むしろこの程度の表現でもまだ批判精神のあり方としては甘過ぎる言い方なのではないか。 
 核兵器廃絶論については我々日本人は過去に醜いイデオロギー主導の分裂騒動の幻滅を味わっている。 共産圏の保有する原爆はキレイな原爆なのだという恐るべき正義論理体系(イデオロギー)を振りかざした人間達を前に、ビルマの竪琴の著者、竹山 道雄、は「水島は、水島上等兵は死んだのです」と激白して核廃絶市民(?)運動と決別した。 遠いあの日のTV報道の場面だけが記憶にいまだ鮮明である。

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2007年6月26日 (火)

この樹なんの樹♪

日立という総合電機メーカーのテーマソングだったか、なかなか善い歌がTVCMで流れるようになってから、もう何年たつだろう。

 あの歌で「なんの樹?」と歌いこまれている樹は確かアメフラシの木(*1)とかネムの木の一種とか聞いた記憶があるが、遠望して平らに広がる樹冠の形状がユニークで他の木と区別がつけ易そうだ。  

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2007年5月 7日 (月)

サクランボの実る頃

この唄の由来を調べていて、また例のブツクサ病の発作が起きた。 ヒマつぶしに読んでくださっている皆様、毎度の脱線、しゅまんこってす。
→ http://together-with-nana-mouskouri.blogspot.com/2006_09_01_archive.html

19世紀末、ドイツ=プロイセンとの戦いに敗れたナポレオン3世のフランスにあって、自国臨時政府の降伏調印を否定、反乱軍となってまでもあくまで闘うとした市民軍が樹立したパリ・コミューンは成立3ヶ月を待たずして崩壊した。
 フランス臨時政府はプロイセン軍に捕虜となっていたフランス兵をつかって同じフランス人であるパリ反乱軍の鎮圧にあたったが、その結末は実に無惨なものであったとか。
→ http://www.geocities.jp/timeway/kougi-93.html

 この戦場のバリケードの中で詩人J・B・クレマンが出会った20歳の看護婦ルイーズ嬢の手篭の中のサクランボと、その彼女の戦死の記憶とが、<あの日からこの心には開いたままの傷口がある>という詞となり、やがて1960年台に至って「サクランボの実る頃」として知られる哀愁を帯びたシャンソンに生まれ変わり今に伝えられているのだという。 

→ http://la-chansonet.com/CagazeFiles/cerises.html

 昨日、フランスで誕生した大統領はこの歌をどのように聴く人なのだろう。 「紅の豚」という複葉機の時代に設定されたストーリーに60年代のシャンソンを織り込んだ宮崎駿は、一体どのような思いをこの歌に託したのだろうか。  どうやら 5月というのは、赤く実ったサクランボを食べる事のほかに、そういう事を思いおこす季節でもあったらしい。

 実に政治とは人の生き方の根幹に関わる命題である。  安直にやれ右だ左だとレッテルを貼ることが流行している嫌な世相も一部にあるようだが、その中にパリ・コミューンをきちんと評価できる人間がどれだけ居るものか、はなはだ心許無い気がする。  ま、言ってる本人もまるでわかっちゃいないのかもしんないが。

(一部文言訂正 5月8日)

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2007年3月26日 (月)

♪今度くる時

持てきてたもれ 奥の深山のナギの葉を♪ というのは以前に書いた南部牛追い唄の続きの詞。  ナギの葉というのは引っ張りに強くなかなか千切れないので、切れない強い縁(えにし)という洒落にかけて牛追い唄に謡いこんだものだろう。 
しかし、WEBで検索してみれば、植物としてのナギは紀州熊野の神社境内に人手によって植栽された群生が稀な例として知られているものの、生育北限は関東南部とされている。 同じ南部(汗)と言っても岩手という北の大地の山奥で生育できるような樹木ではないらしい。
 にもかかわらず、その岩手の民謡にしっかりと詠いこまれている「ナギの葉」は、♪持って来て「たもれ」♪ というおよそ牛飼いらしくない雅(みやび)な言い回しからも推察できるように牛飼い達の生活実感の裏づけのある発想とは違うものだろう。
 この上流階級独特の「たもれ」という言葉を、なかば気取り、なかば揶揄するような気分をこめて唄に織り込んだものとすれば、奈良和歌山の神社の伝承を知悉する南部の唄い手の気位の高さをそこから読み取ることも、あながち的外れとは言えないように思う。

 WEB上の百科辞典によれば 「その名が凪に通じるとして特に船乗りに信仰されて、葉を災難よけにお守り袋や鏡の裏などに入れる俗習がある」 とされているが、なるほど前掲のBLOG記事に書いたとおり、牛荷駄を「陸舟」として見るならば、持って来てたもれナギの葉を という言い方に幾重にもかけられた牛方あらため船頭の洒落の面白さを読み取ることができそうだ。

 百科辞典では触れていないが、ナギの葉を鏡の裏に忍ばせておくと、いつかその鏡に恋しい人の姿が映る という俗信があるのだとか聞き及ぶ。
 この誇り高い南部の牛飼いのを、いつか自分でも朗々と声に出して歌えるようになりたいものだ。  贅沢な夢ではあるが。

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2007年3月 1日 (木)

早春賦

春は名のみの・・・とくれば、そりゃもうあ~た、懐メロ中の懐メロ。 数多(あまた)あるナツメロの中でもカビが生えてまさにコケ生(む)すような古典中の古典だと思い親しみ馴染んできた歌なのだが、ふと今日になって賦という文字に疑問を持つようになってしまった。
 「賦」というのは歌のことだ という小学校教諭の教えをそのまま鵜呑みにして50年余なんの疑問も持たないできてしまった。 

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2007年2月23日 (金)

おふくろさんよ

おふくろさん と言っても、これは三浦大根の品種名の話しぢゃない。
 最近、演歌の森進一が歌う「おふくろさん」で騒動が持ち上がっているらしい。 そのことにからんで、ついまた偉そうなボヤキ心がうずいてくる(苦)
  まあ、普通には、歌ってぇのは作曲家と作詞家がつくるもので歌手は色々代わって同じ歌をうたうのだから、歌手が勝手に中味をいじくって歌いたいならそういう依頼を最初にやっておくってのが良識とか常識ってものなんだろう。
 無論、美空ひばりくらいの大物になって、テーマ・イメージを歌手サイドから出しておいて作詞作曲を依頼するってパターンは話しが別だ。

 

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2006年7月13日 (木)

帰去来

と言えば陶淵明だが、この詩人との最初の出会いは赤字財政を糾弾された美濃部東京都知事の落選の弁だった。 
 かへらなむ、いざ。  という訓じかたに一種の美学を感じたものだったが。

 後年、確か昭和45年ごろ,トラブル対策で下請けの香港企業に出張したおりの中国人技術者との会話で「帰去来」の感覚を問うてみたところ、これはナンセンスな言葉だ、帰り去り来るというのは意味を成さないと笑われたことがあった。 岩波新書の陶淵明を持参していたので、当該詞句のページを探して、ほれこのとおりお前達の文明が誇るべき詩人の詞(ことば)だろうがと言い返してやった記憶がある。

 考えてみれば、この詞を引用して都知事落選の辞とした美濃部という人はええカッコしぃと言われてしょーがない程の負の実績ばかりを残した人だった。 

しかし、退けぎわに引用した詩によって、私の中での彼の(ろくに知りもしない)人格に対する評価には一定の敬意が織り込まれるようになった。

かへらなむ いざ。 田園将に蕪せんとす。 なんぞ かへらざる。

政治家を辞して学究生活に戻った彼が、その後どのような学問的業績を挙げたかは知らぬ。 戻った田園は荒れ放題だったのかも知れない。
 いずれにしても、彼に対して感じた一定の敬意には、このように卑怯未練な言辞を残さざるを得なかった人間的弱さへの共感と侮蔑感もまた 混然と同居している。

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2005年10月 8日 (土)

骨を拾うということ (05.09.25)

昨日のNHK番組。 僧侶がフィリッピン遺骨収集の体験を語るというインタビュー番組にひどく感じるものがあった。
 第2次大戦末期、フィリピンの巨大な洞窟に逃れ隠れた日本人1000人が、追い詰めて迫る米軍から火炎放射器とドラム缶を投げ込まれ、焼き殺された。 ただ1つの出入り口に殺到し炎熱地獄から逃げようとした人たちは待ち構えていた米軍の機関銃に殺しつくされた、その現場であったそうな。

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2005年5月 2日 (月)

え? 材木はいらんかね

 ケヤキという樹がある。 武蔵の国、埼玉県のシンボルとして指定されている樹である。欅とは「けやけし」つまり、気高い・貴いという意味をもつ言葉をを語源とする名前であるという。 古くは槻という文字を充てた。

 ごく近隣に白樫(しらかし)をシンボルとする市がある。 これはまた随分と限定した樹の定義を行ったものだ、さぞ植物に詳しい人達ばかりの住む市でもあろうか、と半ば感心してもいたのだが、どうも本来は常識的な水準、つまり大雑把に「かし」としたかったものだったらしい。

 植物の名前には俗に呼ばれる名前と四角張った学名とがある。 おおらかな気持ちで「樫の樹」といっても権威ある図鑑に照合すればそんなものは存在せず、樫は細かく分類され夫々に独特の名前を与えられている。
 想像だが、おそらく指名作業を命じられた担当官は「樫」といわれ確認のために立派な図鑑などを参照して少なからず困ってしまったたのではないだろうか。 図鑑に載せられていない名前を「市」を象徴する樹の名として公表することに自信をもてなかったのではないだろうか。

 アラカシ、シラカシなどの樹を厳密に区別するのは、樹を建築材として看る立場ではそれなりに重要である。 しかし一般市民を代表する立場で外見上それほど大きな差を持たない樹種を専門家の用語を借りて厳密に区別し正確を期して導入したことの意味とは、いったい何であったろう。

 その町に住む老人達は「シラカシ」という市のシンボル・ツリーの名を聞く度に眉をひくつかせ、わざわざ「ああ、樫のことだね」と念を押す。
 
 本音を問いただしてみたのだが、市民が全て植物学者になったり材木問屋に弟子入りする必要はないね、という軽い返事が返ってきた。
(2003年11月4日)

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2005年5月 1日 (日)

幼き夢の揺り篭よ

 最近、と限った話でもないのだが、中国という国との友好的国際関係なるものが馬脚を顕すことが増えたような気がする。 幸い、日本の主張がブレなくなるにつれて国際世論の中にも日本を支持する意見が増えてきているようでこころ強い。

 中国のカントリーリスクを覚悟した上で日本の空洞化を横目に見ながら大陸に進出していった企業は、これまでSARSと停電程度のリスクとしてしか評価してこなかった中国という国の不安定要因を、少しく見直す契機にしていることだろう。 中国はとにかく無茶な動き方をする国であるし、これからもそれは変らないのではないか。
 あの三峡にわたる巨大ダムも、その出発点で抱かれていた希望的観測を打ち砕くような土砂堆積評価に依拠する計画合理性への疑問が無視されて強行突破が行われてきたと記憶している。
 もしかしたら、あのダム工事の強行は中国版の道路公団問題として理解するべきなのだろうか。 いや、あれは党指導部無謬の神話を保持するための深刻な神学的問題として理解しておくべき事なのだろうか。
 ダム計画のために住居を追われた中国の村人の物語を語るTV報道映像を見ることがあるのだが、つい自分が中学卒業のころに完成した小河内ダムのことを思い出してしまう。

 このダムは東京の水瓶とよばれてきた。

 小河内ダムの計画で村を追われた人々の、湖底に沈む故郷の村への思いは「幼き夢の揺り篭よ」と東海林太郎に歌われたが、起案は明治42年の尾崎行雄東京市長にはじまり、昭和5年に計画が具体化、戦争による中断があって完成は昭和32年に至っている。
 途中、計画執行者と立ち退きを迫られた者との間にうまれた葛藤は、石川達三の「日陰の村」に陰惨に描かれている。
 平成の今、小河内ダムの恩恵を殊更に言挙げして感謝する東京都民というのも希少になっているだろう。 こんな作品があった、こんな歌が歌われた、そんなことさへ誰も知らないで済む時代になったのだろう。

 中国がそういう時代を迎えるのは一体何時のことになるのだろう、と思いはとめどなく茫漠と流れる。

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うらなり考

少し古い言葉なのかもしれないが、うらなりの南瓜とか瓢箪とか言って蔓の先端にできた余り出来のよくない作物を「うらなり」と呼ぶことがある。 
 辞書ではこのウラナリを「末成り」と表記するものが多い。 しかし果たしてウラは末であるのだろうか。必ずしも納得できる説明ではないと感じて居たが、辞書に反論する根拠もなにもないまま、ふむ、そういうものか と無思慮にこの言葉を使ってきた。
 
 この語源にハタと思いついたのは木彫で鑿(のみ)を使うようになってからのことだ。

 ご存知のように伝統的な日本の刃物は2種の鉄を組み合わせて構成されるものが多い。
 特に鉋(かんな)や鑿の刃では軟かい鉄(かね)と堅い刃物用の鉄、つまりハ+カネ=ハガネを貼り合わせて作る。 これを砥ぐとき、柔らかい鉄の面をオモテ、ハガネの側をウラと呼んで、最初にオモテを砥いで刃先を鋭く整形し、その後にウラを砥いで切っ先を作って仕上げる。
 この仕上げをウラダシと呼ぶのだが、実にこの用語で示されるように、ウラは裏であってかつ先端の切っ先部分に相当するのである。

 なるほど、ウラというのはこういう刃物を見れば確かに先端に位置する事を示す言葉である。 蔓の先端に着いて摘果の次期を見逃しそのまま放置されて大きくなりすぎた南瓜や胡瓜をウラナリと呼ぶのは、実はそういう由来があるとすれば、なるほど、と納得のゆく言葉の筋道を感じる。
 既にどこかで誰かが思いついている事であるかも知れないが、まあ、こんな事を考えて無限に退屈な時間をつぶすのも悪くもあるまい。 
人生を長い蔓に喩え、ひょんなウラナリ考として投稿する所以である。

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2005年3月22日 (火)

戦後60年の区切りに

 今、NHK BSで昭和20年の今日 というテーマの番組が続いている。
昨21日は再放送の日で、昭和20年3月10日早朝の東京大空襲の日の大殺戮がどのように計画され実施されたかが取り上げられていた。 当時の東京下町、深川区で罹災した親の思い出を繰り返し聞かされ育ったものにとって、番組は惨酷と言える位に詳細な取材によって構成されていたが、生存者のひとり、90歳の老人に若手のインタビュアが問いかける言葉の無神経さに、ブラウン管のこちら側の血圧がまたあがりそうになってしまったりもした。

 日本人を人間だとは思わないと戦後になってまで明言していた米人将校たちと、日本家屋の実物大モデルを使って焼夷弾による効果的攻撃方法を検討する軍人達の理性と。 高度2000メートル上空からジャップを焼き殺す「使命」の解説に、およそ世に在るありとあらゆる「正義」なるものの虚構が暴かれてゆく。 私はこの番組をそのように解釈しつつ見続けた。
 3月という凍える季節の寒さの中に人間の手によって作出された炎熱地獄と、そこに生まれる状況の許、次々と肉親の生存を諦めながら尚逃げのびる者達の悲鳴は、ある老人へのインタビューに焦点の1つを当てていた。
 避難先の小学校の深いプールに火炎地獄から身を護ろうと水を求めて入り込んでくる人の圧力と、その力に押されて背の届かないプールの底に沈みこんでおぼれてゆく人と。 もしかしたら、自分と一緒にこのプールに逃げ込んだ妹もそうやって溺れ死んだものだったかも知れない、そして自分もまた、少しでも背の届く所に留まりたいと人を押し誰かの妹を踏みつけていたのかも知れない そう悔悟の念を語る老人に、心無いインタビュアの言葉が、未熟な若い世代の地獄というものへの理解の程度を自白するかのように突き刺さる。
 私の母が被災したのは菊川町の尋常小学校でのことだった。 ああ、TV画面のこのかたは、言問橋でか。 さぞご苦労なさった事だろうと、人それぞれの苦難の道に思いはめぐるのだが・・・
 番組の締めの積りなのか、石原町から蔵前のあたりにある震災祈念館の館長(だったよな?)早乙女勝元氏が相変わらず偉そうな弁舌をふるっている場面では思わず画面に毒づいてしまった。 このイデオロギストが何をぬかすかと。
 幸い、編集のおかげか、いつもの彼のプロパガンダは聞かされずに済んだが奴は自分で作品の中で言っていたとおりにマケ元で終わるべき人間だったと私は思っている。 今、氏の作品の中で思い出すのは「下町の故郷」程度なのだが、若い時分には三一新書版で反戦と分類されるような書物を良く読み漁ったものだ。
 その中のどれほどの作家が、戦争というのは相手があってするものだという簡単で自明の事を正面から取り上げていただろうか。 いつも片手落ちの左翼の視点からしかモノを見ないで済ませてきた人たちを、ある時期から、私は心底軽蔑するようになった。 このような地上の地獄から父母を兄弟姉妹を同胞を護ろうと特攻に志願する若者たちが在ったことを、なぜ彼らは隠蔽したがっ
たのだろうか。 若者たちのどこに批難に値するべき咎があったと言うのだろうか。 白菊隊のごとき外道の上をゆく外道の事例を引き合いに出し、ルメイ将軍への勲章授与の戦後の屈辱をひやかしの種にするという人格の卑しさを、なぜ彼ら言論人たちは恥じることがないのだろうか。
 早乙女さんに代表されるような言論人の時代は、もうとっくに終わっているのだ。 私はそう信じたい。
 今はこの生意気なだけにしか思われないインタビュアーの冷静な問いかけにこそ、次の世代に受け継がれるべき、古くて新しい意味をもう一度私たち自身が個別に、見つけなければならないという時代なのだ。
 
 あれから60年経過し、番組の最初の取材でジャップを人間と思ったことはないと明言したB29の元爆撃手に再び焦点が当てられる。

 日本人と結婚し静岡に住むことになった自分の息子の許を訪ねた彼は、昼の銀座の歩行者天国を散策したとき、その路上で晴れた空を見上げ自分の爆撃機が今まさに焼夷弾攻撃を仕掛けている光景を眼にしたという。
 そこにはひとびとが居た。 人々の姿が彼の眼にも見えた。そういう授業をこの元爆撃手は故郷の小学校で生徒達に語りかけているのだという。

 日本人も、そしてこの米国人も、どのような国籍にあれ、その人が世界を見る視点に愛がなければただの外道にすぎない。 その愛は、人とのつながりを意識したときにしか生まれる筈がないではないか。 
 ロシア・中国・韓国のみを正当化し、天皇を責め、軍国を責める以外に何ももたらさなかった日本の「革新」思想は、近年とりわけ露骨になってきた中国・韓国からの強請外交に対しどういう回答を用意しているのだろうか。 南京大虐殺に関し共同調査を呼びかけた日本外務省の提案を拒絶する中国首脳の方針を、どのように理解せよと言うのだろうか。
 醜悪さを晒し反面教師の役割を果たすだけというなら、右も左も、もう十分すぎると思うのだが。

2005年3月22日(火)

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2003年7月30日 (水)

巫山の夢

 幾度か検索をかけてみたのに、どう試してもWEB上では基の資料に辿り付けない、しかし忘れがたい句がある。

 人恋の 真冬の海の遠鳴りよ 夜毎巫山の夢はみるとも

 蛍雪時代などの受験誌誌上で昭和30年代前半、おおいに人気のあった国語の先生で保坂弘司という人の名を、覚えておられる向きもあるのではないだろうか。
 この受験世界で高名となり功成り名遂げた者の通例にしたがい、保坂氏も例の如くに自伝的半生記を著しているのだが、当時、一読者であった自分の受験生活を回想してみれば、保坂氏は単なる受験の技術指導だけでなく、読者にとって終生の道標となる作品を遺していた教師でもあった事に気が付く。
 題して「生きゆくの記」。 学燈社が初版と記憶。
 不思議と鮮明な記憶であるのは、その中の小品群からそれだけ強い印象を受けた為なのだろうが、あへて1つの理由らしきものをこじつけてみれば、その短い小品集の中に佐藤晴夫との出会いが埋め込まれていた為だったのだと思っている。
 あはれ秋風よこころあらば伝へてよ と始まる秋刀魚の歌で知られる佐藤春夫と谷崎潤一郎夫人との恋のものがたりは、その詩集が発刊された時期には既に当人達にとってさへ過ぎさった日の記憶、ふるい思い出となっていたのだろう。
 その詩集の「海辺の恋」と題された詞の中では、その恋の記憶は一層純化されあたかも幼年の日のとおい記憶の中の出来事であったかのように、すべての生々しさを封印し去っている。

 こぼれ松葉を かきあつめ をとめのごとき 君なりき
   こぼれ松葉に 火をはなち わらべのごとき 吾なりき

 若い日に、受験の息苦しさから逃れるようにして読んだ保坂氏の著作の中での佐藤春夫との出会いは、際限のない暗記作業の甲斐ない時間を繰り返す苛立ちを忘れさせ、この見知らぬ詩人が体験した恋への淡い追想に寄り添ってみる事によって一種表現しがたく狂おしい若い感情をいずこかへ揮発させるものでもあった。

 銀行員であり、かつ又高名な作曲家である、という稀有の才を自ら磨き上げた小椋佳は、この詞(ことば)に曲を与えるところにまで感動を昇華させたのだが、完成されたやや復古調の寮歌風の調べには、聞くたびに偉大なる俗物への賞賛と感歎の思いとを新たにさせられる。
  もしかしたら、と思う。
  もしかしたら 私と同じ年代である小椋氏も、あの息苦しい受験勉強の中で、同じようにしてこの保坂弘司の小品にめぐりあっていたのではないか。 もしかしたらあの受験生活の息苦しさこそが、このメロディの持つたおやかさの秘密なのではないか、などと身勝手な思い入れを深くするこ
とがある。

 わらべとをとめ よりそひぬ ただたまゆらの 火をかこみ
   うれしくふたり 手をとりぬ かひなきことを ただ夢み

 最初に引用した短歌は、保坂氏が学生のころに主宰した同人雑誌「わこうど」へ投稿する女性会員との短い邂逅の記憶を書き留めた短編の中のものである。 保坂氏の手になる書の前書きは以下のように始まっていた
『ある魂がある時代をひたむきに生きた記録は、それ自体にかけがえのない意味があるという。 (略) 改めていう。 人間の才能には、秀才も凡才も含めて、限界があるのだ。 この限られた才を生かす道は、一時に1つの事をたしかにやってゆくことをおいて他にはないのである。 このことを私と約束して下さる人だけに、この書を読んでいただきたいと思う。』

 今の若者が青春のこの大切な時期にいだいているであろう幽悶や嘆きは、このような者たちの発した言葉に、一体どういう違和感とどういう共感とを感じていることだろうか。  ぼくたちは、今、小椋佳と佐藤春夫たちのように世代を超えて互いに交わしあう言葉を持っているのだろうか。

 手元に残る本の検印省略票には昭和34年初版となっている。 1959年というのはどういう年だったかしら。 家永三郎氏もまだこの時期は政治的な色合いの強い教科書裁判にのめり込む以前の、比較的おだやかな言論に終始していた時期だったような気がする。

2003.7.30

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2003年6月29日 (日)

安倍晴明

気が付いたら何時の間にか、NHK教育TV(地上波3ch)で梅若六郎の新作能を見ていた。 なぜそんなものを見る気になったのか、などという余り経過は覚えていないが、ワキが謡う毎度おなじみの
【 ねがわくば 花の下にて春死なん その如月の望月のころ 】
という西行法師の辞世が、たまたま小耳にひっかかった所為だったような気がする。

 ttp://www.noh-umewaka.com/seimei.htm
梅若六郎50周年記念 新作能『安倍晴明』
日時:平成13年12月17日(月)
会場:サントリーホール(大ホール)

 シテは、これから都へ上って勉学に勤しみ立身出世を目指そうという安倍晴明の子孫を名乗る旅の若者である。 ワキの旅僧と共に野中の宿で一晩を過ごすことになるのだが、仮寝の宿の主は糸車で糸をつむぐなにやら曰くありげな老女一人である。

宿の仮睡で若者は夢をみる。舞台は若者の夢の中に入ってゆく。

 安倍晴明といえば今の若者に不思議な人気をもつ平安の陰陽師である。
 この舞台はいかにも新作能らしく高名なこの陰陽師の出生伝説すなわち、阿倍仲麻呂の血をひく稀名という在野の男が土御門の野狩から白狐を助けた夜、偶然にも彼を訪ねた葛子、かつて悪辣な陰謀によって引き離されていた彼の妻、との話からを丁寧に解説する事から始まる。 
 妻との間の情のこまやかさを詠いあげる謡の句は漆黒の闇の中に響きわたる鼓の音の高さと相俟って、この謡の句を烈しく聴衆の心に刻みこむ
【 恋には人の死なぬものかは 恋には人の死なぬものかは 】
 実はこの妻は、男が助けた白狐の化身であり、やがて二人の間に産まれた子が安倍晴明その人であること、そして事実が明るみに出たとき、母である「者」が子を残して姿を消し去っていった
という不思議の記憶は、繰り返し舞い詠われる
【 恋ひしくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森の恨み葛の葉 】
の詞(ことば)により観客の胸に一層深く刻み込まれるのである。

 途中、本来の能では絶対に起こりえないある種の試みに新鮮な驚きを感じた。
 
 左右の舞台袖に座ってそれまで出番を待っていた男、そして女のナレータにスポットライトがあてられ舞台の背景となる土御門や花山天皇についての詩的な解説 がフランス語で行われたとき
、視聴者はこの舞台が日本人の為というよりも外国へ発信する為に設計されたものであることに気付かされる。

 やがて舞台は花山天皇の一条戻り橋での出来事に進む。 既に晴明は陰陽師としての地位を確立し、受けている信任も厚い。 
 戻り橋の上で全く身動きができなくなった天皇一行のただならぬ有様を見て、晴明は全能力をあげてこの呪いを解こうと怨霊に挑むが、殺陣を舞う怨霊は晴明に向い おまえの知識能力が吾が呪いを解くのではない、おまえの中に流れている血こそがその力の淵源であることを知れ と告げる。

 船弁慶などの舞台で敦盛が投げる白糸と同様、暗い舞台上で効果的な照明をあびながら、飛び交い打ち広がり縺れるおびただしい量の蜘の糸の下で、一条戻り橋の怨霊が女郎蜘のすがたを顕して晴明と立ち回りを演じる部分は実に圧巻であった。

 ついに舞台は終局を迎える。 女郎蜘の白糸はいつしか仮寝の宿の老女のつむぐ糸車に重なりあい、夢にうなされる姿を怪しむ旅僧によって若者は覚醒させられる。

 立身を思って都を志した若者はこの夢に啓示を受け、母の待つ故郷に帰ってそこで人生を全うしようと思いなおし、聞いた僧はそれも1つの悟りの道であろうと告げる。

 久しぶりの能舞台だったがこれまでにない不思議な感銘を覚えた1時間であった。 昔5・15事件で裁かれた篤農、橘孝三郎がダーウイン主義と罵った進化論的社会学を我々は本当に克服することができているのだろうか。

♪  上りの急行がシュッシュラシュッと 行っちっち
♪    いやな噂を ふりまいて
♪   せめて せめて せめて
♪     遠い 遠い 東京の
♪        空に飛んでけ ちぎれ雲
♪  汽笛がなっちっち 遠くでなっちっち
♪    夜汽車の笛は いやだよ
♪  早く行こう
♪    あの娘の住んでる 東京へ

(2003年6月)

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2003年6月20日 (金)

百物語

江戸期末の庶民心情を1つの風景として描く杉浦日向子さんの「百物語」という漫画がありました。
 ある町のご隠居がふと思いついて、100本の線香を用意し、訪ねてくる人毎に1つの話をして貰い、話の終わる度に1本の線香を手向けてその物語を供養する。 最後の1本は、話を聞いた心への供養としてつかいますので、実際に描かれているのは99話までになっています。
 中身は庶民の普段の生活の中で気に留まった何気ない物語ばかりで、魑魅魍魎の世界といえばそれまで。 同じ杉浦さんの「ニッポニアニッポン」という作品は、この百物語と合わせ鏡として読むことで、明治初期の江戸を描いて見事であると思いました。 中身とか結論とか そういうものは一切なし。

 明治の元勲である勝海舟を批判した福沢諭吉の「痩せ我慢の説」は諭吉の死の直前にようやく出版された著作で、その代弁者として知られる人物として「碩果生」が知られています。 しかし、碩果生の評論は、こういう庶民が外国に対して抱いた恐怖に対して知識人が並べてみせた屁理屈に過ぎないと言えます。 鹿鳴館の立案時期には、その建設が有効であると信じる人間が大多数であった。 
しかし、実際に出来上がるころには、その効用を疑う人間層も増えてきていた そういう経過を指して時代の激変と言うわけです。  
なるほど政局の当事者であってみれば、いくら小栗上野がフランスを頼ろうとしても肝心のナポレオンが本国でひっくり返ってしまっていれば、フランス借款などの実効はなかっただろうと思います。 だから勝海舟のおかしたリスクは、本人が言うほど大きなものではなかった とする碩果生の論には、一見した限りにおいては、理がありそうに見える。
 その時代のことをよく知りもしないでフランス危機が幕末にあったとするが如き風説に惑わされてはならない という組み立てをして、碩子は福沢の勝批判を正当化しているのですが、まともに福沢の痩せ我慢の説を弁護しようとするなら、本当はこれは筋が違っているのです。

 ま、それはおいといて。

 その時代のことをよく知りもしないで という言説には、色々な品質があります。 この話法は、実に簡単にひっくり返る。 だから10年ひと昔という言い方がよく使われていたのですが、今ですと、中国をみるなら1年でひと昔になりそうです。 中国が脱亜入欧にかけているエネルギーは凄まじいものがありますが、孫文が今の時代に生きていたらなんと言うでしょうかしら。  をっと、これも際限のない無駄話になりそう。

 おもしろいと思ったのは、明治10年、福沢は西郷擁護論や痩せ我慢の説等を実際に自分で発表できるほどの存在ではなかったという点です。 ただ、福沢の偉大な点は、個人が国家と対峙し得るほどの存在になれる と論じた点です。
 これが彼の「学問ノススメ」の本質であって、単なる学塾のCMに過ぎなかった書物(!慶応の関係者には申し訳ないけれど)が熱狂的に支持されたため、長い続編を書くことになってしまった。  当然、そういう時代ですから書き始めた時の福沢と、書き終わる頃の福沢とがどれだけのアイデンティティを保持していたのか疑問もあります。

 倫理が宗教と重なる部分というのは相当に大きいと思います。 自分の郷里を大切に思い、他県出身者と一線を画するという習慣は、つい最近まで(一部には今でも)普通にみられる意識でした。  同様に出身学校や職業、資格によって自己と他者とを切り分けるというのも、狭く日本国内に限らず、人間世界に普遍の原理とも見える価値観だと思います。 
 その枠の範囲内で、互いに自分を尊しとし他者をも敬する。 敬するに足ると信じる理由は、他者も自分と同じように、たとへば郷土愛を誇りにする事 を知るからでありましょう。 これは一歩崩れれば差別意識に直結します。 事実として、東洋も西洋も、ムカシというのは差別ぬきに語ることのできない時代のことを指すのだと思います。
こんな話をしても、たぶん何も新しいことは伝えていないと思っているんですが、アメリカ内戦で、正義と郷土愛とをかけて互いに戦った記憶と、その結果として、事実として生じた惨状とを対比して生まれたのがアメリカのプラグマティズムです。 私が高校生のころ、福沢、橘、松下幸之助を並列してみることで「ことば」としての思想というものの限界への処方箋が見えるように思ったのです。 幸之助の水道哲学を指して水道方式などと揶揄する人間層があります。 思想を超えるものは実践であるという意味で、橘が構想した生協的な共同体組織は、そういう思考層からはうまれなかったことを肝に銘じるべきだと思っています。 とは言いながら、実践を超えるものは理念であるという反語も、予め了承します。 しかし、それは現在ここにある理念ではないだろうと思うのですね。

郷土愛やナショナリズムを否定したら、出発点を喪った人間は、退化するしかありません。 かなしいことに、それが国家という枠組みにそのまま延長されて近代という名を冠された、それが明治というものだった。

杉浦さんの漫画は、そういう庶民の汗のにおいを伝えてくれるようです。

2003.6.20

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2003年3月13日 (木)

富岡松五郎伝

 幾度となく板妻の「無法松の一生」を総括した記事をWebサイトの上で探してみたのだが、今のところ、これと言って優れたものには未だに出会っていない。

唯一、それらしいか と思われる内容は以下のようなものであった。

---- 引用開始 ----

 無法松のかなしみ 玉木研二氏(毎日 西部報道部)
  http://www.mainichi.co.jp/eye/hassinbako/2002/11/24.html

  北九州の作家・岩下俊作の「富島松五郎伝」は戦前から「無法松の一生」の名で何度も映画や芝居になり、筋立ては今も広く知られている。 
  気性は荒く情にもろい小倉の車夫・松五郎。夫を失い、一人息子を育てる 陸軍大尉夫人。松五郎はひそかに夫人に寄せる思いに苦しみながら、その家庭を守るため献身する。
 【略】
  だが父と子は当然離れゆくものではないのか。松五郎は敏雄の実父ではないが、まぎれもなく育ての父だ。 晩年酒に身を滅ぼした彼の遺品から敏雄名義で長年積み立てた多額の通帳が出てくる。物語はそこで終わる。
  「父の役割を」の掛け声に焦っても仕方がない。懸命に生き、静かにほほ笑んでいればいい。   

---- 引用終了----

これは・・・随分と違う。 そう思った。

 大切なものが欠落しているのではないだろうか。

 松五郎の気の荒さは、彼が車夫という職業に就いた事ひとつを取り上げても理解できる。 この時代この仕事につくという事は、すなわち、その過酷な労働条件ゆへに平均してわずかに3年という生存期間しか許されない「車夫」の世界に身を投じるのだという意味があった事はイザベラ・バード女史の日本奥地紀行からも伺える。
 この、命を的(まと)にする生き方(あるいは同じことだが死に方)から得られる現金収入は、明治10年の頃の荷駄馬賃料の半額程度であったという。

 上での引用文にみられるような「酒に身を滅ぼす」までもなく、時代の業病である結核肺炎が、その過重な労働に見合わぬ栄養の質とそのバランスとによって、実に簡単に屈強な者たちの生命をも奪っていったのだ。
 何よりもこの事は世間に広く知られている経験法則であった。

 世を捨て身を捨てた者、富島松五郎が確実な現金収入の途として「車夫」になる事を決意したとき、おそらく彼の意識には日本社会の上層に対する深い不信と疑いとを持っていたのではないだろうか。 
 毎晩の俥の客達が果たしてその社会的信用や尊敬に値するものであるか否か、享受している給金に相応しい働きをしているものかどうか、俥を牽きつつその重さを量っていたのではなかったろうか。 

 ある晩のこと、松五郎は俥の客となった吉岡に喧嘩を売る。中身の無い空威張り野郎だと頭から決め込んで、客である立派な身なりの紳士を恫喝して幾許かの金を巻き上げようとするのである。
 どうせこいつもニセモノだ。 こいつ等の懐の中の財布の中味は俺のものにしても一向に構わないんだ。

 しかし、松五郎はものの見事に吉岡に打ち据えられる。 数日は足腰が立たぬほど完璧に打ち負かされ、医師の手当てを受けさせられたことを知った彼は、初めて吉岡が陸軍大尉であり、かつ、警察の剣道師範を勤める漢であることを知る。
 そして、無法にも自分が恫喝した相手から自分が人間として扱われたことを知るのである。
 当時、世の中で最も威張り腐っている連中が警官であった。その警官を指導する立場にある吉岡という男が、身を捨てて生きることを選んだこの自分という者を、ひとりの人間として扱ったことへの素直な感動があったのだろう。 そして、明治と言う時代に生きた彼の中でその感動は「忠義」という意識に転化したのではなかったろうか。
 くだらない世の中だ。 くそ面白くもない人生だ。 そう決めてかかっていた者が、本来そうあってほしいと願っていた通りの姿をした世の中の「上層」に触れた、と信じた。 
 夫を失い、一人息子を育てる陸軍大尉吉岡夫人に、松五郎は明治人の忠義を尽くそうと願ったのではないだろうか。 彼の思慕の念は決して吉岡夫人への恋ではなかったのではないか。 それはむしろ、彼の愛国心 という言い方でしか表現できないものではなかったのだろうか。
 忘れ形見の敏雄少年は、長ずるに従って松五郎をうとましく感じ疎遠となっていった。 久しぶりの帰郷で小倉祇園太鼓を舞い打つ松五郎を、ただ同行した高校教師の感動を通してしか理解できない少年に育っていた。

 戯画的に言うなら、この敏雄少年は、やがて大正時代を荷う青年へと成長して行った。 土着の文物を軽蔑し、紙と活字で描かれた西欧への憧憬を語ることが文化であると錯覚する大正ロマンの時代を創りだした。
 再び故郷に放棄され遺棄された松五郎のような者達はついに下克上の5・15、更に2・26へと突進んで行く他になかったのではないだろうか。 突撃の日、橘孝三郎は満州に逃れていったという。

 最後の場面で、吉岡敏雄名義で長年積み立てられた多額の預金通帳が松五郎の遺物の柳行李から出てくる場面では、劇場のあちこちで遠慮がちにすすり泣く音がしていた。
 今、もしこの映画を若者達の前に上映したなら、一体どんな感想が聞かされることだろうか。
 そうおもえば、昭和さへも 遠くなりつつある事に気がつく。 小熊英二氏の著作によく引用される丸山真男などのような戦後思想界の人物群像に、私はぼんぼんの吉岡敏雄の姿をみたような気がしてならない。

2003.3.13

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2003年3月 9日 (日)

娘道成寺

http://www.netlaputa.ne.jp/~AKITSUKI/Kabuki/buyou/doujyouji.html

今晩、はじめて市川崑監督の「娘道成寺」という作品を見た。
 
道成寺といえば、『鐘に恨みは数々ござる』と始まる長唄でお馴染みの、安珍・清姫の霊異の恋の物語である。 しかし、この映像作品は市川崑の新解釈によるものとの字幕解説があり、おもわずこのモノクロ画面の操り人形劇にTVのチャンネルを固定してしまった。

 書き割りの、山寺に登る長い石階段に桜の花びらが舞い散るカットからこの映画は始まっている。 物語の狂言回しはヒョウキンな表情をした寺の小僧達である。

鐘造りの若者が思い悩んでいる。 
 鋳かけた大鐘が仕上がりの前に割れてしまい、幾度試みても依頼された鐘が出来上がらないのだ。 新築の鐘楼は既に完成しており、皆は鐘の出来上がるのを千秋の思いで待ちわびている。
 思い余って願をかける観音菩薩と、それを見守り、密かに若者に思いをよせる村娘の姿とが、操り人形の糸のもつれる有様さへも計算されているかのように、決して互いに触れ合うことのない画像を重ねてゆく。

 若者の祈願する姿を見つめる娘。 やがて、観音菩薩の前に同じ願を重ねる村娘の姿が映し出される。

 いかなる祈りが通じたものか、ある満月の夜、いづこともなく飛来した何者かが鋳型の炉に飛込む。 それを目撃した若者は今度こそ大鐘が鋳あがることを確信する。
 予想どおり見事に出来上がった鐘は真新しい鐘楼に下げられ、晴れの日を迎えた寺の僧がこれを撞く。 しかしこれはどうしたことか、この見事な鐘はなんとも音色が冴えない。 参集した村人達は皆、驚き怪しむ。
 ふと思いついた若者は自分の手で鐘を撞いてみる。 手のひらを反したように鐘は見事な余韻を響かせて四方の里の村々に落成の喜びを伝える。
 若者が怪しみ探してみれば、自分が願をかけた観音菩薩の前にあの村娘は祈る姿のまま息絶えていたのであった。

恋の手習い つい見習いて
  誰に見しょとて 紅鉄漿つきょぞ
    みんな主への心中だて

 余談だが、道成寺は白蛇伝の日本版だとも言われている。

 能舞台などで見る道成寺では最後の場面の「鐘入り」によって、清姫である蛇が鐘にまきついて中に隠れた安珍を焼き殺すという激しい展開となっている。

この大元となった中国の白蛇伝は 元は霊異の物語である。

 峨媚山の白蛇姫、白夫人(近代京劇での名は白素貞)は小青という娘(実は青蛇)を従え、人間の娘の姿を借りて人の世界に紛れ込む。 白素貞はやがて許仙という男に恋し、結婚して幸せな日々を送る。
 しかし、幸福な日は長く続かない。 偶然に出会った高僧・法海和尚が白素貞の正体を見破り、仕向けて端午の節句の祝い酒を白素亭に飲まる。 酔った白素貞は白蛇の正体を現し、それを目の当たりにした許仙は悲嘆と衝撃の余りに死んでしまう。 その命を取り戻す為に白素貞は命をかけて蓬莱山の百年に一輪しか咲かない蘇生花を取りに行く。
 この霊薬のお陰で生き返った許仙は自分を救った白素貞が蛇である事を怖れ、除霊師、法海 許仙を連れ戻す為に白素貞は金山寺へ向かうが、和尚は法力でこれを阻み、怒り狂う白素貞はあらゆる精霊たちを集めて金山寺を攻め立てた為、おびただしい修行僧や村人達の命が奪われる。
 
 近代化された白蛇伝の物語では、たとへ蛇妖怪であってもやはり白素亭が恋しいと気付いた許仙が、金山寺を抜け出して白素亭の元へと走る事によって終わる。
 しかし、この古い物語にはその歴史に相応しい種種のバリエーションが伝えられている。 許仙は法海に弟子入りし、出家。 数年後に座禅したまま大往生するという組み立てのものが原型に近いと思われるが、これは日本に伝来した「案珍・清姫」の道成寺の形とも異なっている。

当時の観客は市川崑監督の「娘道成寺」の中に何を見ただろうか。
 1947年 新東宝教育映画作品軍の慰問用の発注 GHQの検閲の結果、未発表となった作品であったとの事である。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhinex.htm
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin16.htm
http://www.jks.jp/white.htm
2003.03.09

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2003年2月23日 (日)

南部牛追い唄

NHK地上波1chで今日の午後、岩手の民謡、南部牛追い唄を本当に久しぶりに聞いた。

 田舎なれどもサーハーエ♪ 南部の邦はサー♪
   西も東もサーハー♪ 金のやま♪ コーラサンサーエ♪

 番組は東北の民謡に焦点をしぼった半ば伝統的な手法で組み立てられていた。
 たぶん、こういうのを鳩に豆鉄砲というのだろう、この唄を年頃の娘さんが3人で掛け合う練磨の技に唄い込みながらも、少しく西洋的な女声合唱の小技を組み込んであった所には、面白味と違
和感とを感じたりもした。
 だが、今日のブツ草はその唄のことではないし、ましてや妙齢の美しい3人娘をコキ下ろそうなどという大それた野心(?)があるわけでもない。

 古来、南部は鉄の産地として名高い。 その産鉄は牛の背に載せて関東に運ばれた。 運送手段に牛を使い陸舟と呼んだのは、その運搬能力を評価してのことではあるが、馬に比べて細く険しい道に強い動物であったことの安心感を「舟」という表現に組み込んだものであったらしい。
 吾が埼玉県の川口市は古くから鋳物の町としてしられているが、その背景には、南部から荷を運ぶこれらの陸舟が、最初に大規模に荷をおろした町が川口であったことに因るものと宮本常一が記録にのこしている。
 その宮本常一の手になる「塩の道」なのだが、この書に拠れば、牛追いの利便さは馬荷駄と異なり、牛には自由勝手に道草を道中での食料とすることができた点を挙げている。
 また、荷を運んだ帰りには「舟」である牛をそのまま売り払い、牛追いは気楽に帰途に就いたとしてある。
 帰路では多少の極道も楽しんだものらしいがなるほど、南部牛追い唄の伸びのある唄節にはそういう愉しみへの期待を感じ取ることもできそうな気がする。

 だが、しかし、である。

 NHKの民謡司会者によるこの唄の紹介では、なんと牛追い達は牛と寝起きを共にし、命さへも共にしたいとど哀れな者たち・・・ となってしまうのである。

 いや、これには閉口する。

 たかが唄番組の紹介である、別に口角泡をとばせる事ではあるまい と笑っておくのが本来「オトナ」の見識なのだろうが、この手の換骨奪胎を放置すると、やがて事実から遊離したトンでもない伝説がのさばりかえることになりはしないか。
 それも、単に脚本(ほん)書きが無知であって、ちょっと調べる手間を惜しんで手軽につくられてしまう伝説である。 堪ったものではないだろう、こんな事をノーチェックで受け売りされて育てられる世代の子供たちは。
 宮本常一の著作をよんでいると、同じ時代に世界に紀行した英国婦人イサベラ・バードの識見に触れている個所が幾つかあることに気がつく。 同婦人は、この時期、朝鮮をも紀行し、100年前の時代を切り取って今に伝える秀作を遺している。 手に負えない程の蚊や蚤などの寄生虫との格闘を描きながらも、彼女はその紀行文の中で日本の子供たちの示した慎ましい好奇心をおだやかな目でみつめている。

 以前、童話に恣意的な手を加えることが、たとへそれがどういう善意に由来するものであったにせよ、危険なプロパガンダになりかねないという危うさを指摘したことがあった。
 
 ウイスキーの宣伝文句ではないが、たとへ唄番組の前フリに過ぎない安脚本だったとしても、「何も足さない、何も引かない」と言う気概を持つことが、必要なのではないだろうか。
 自分が日本人であることを確認する意味で、時に口の端に載せてみたいほどに美しい唄であれば その事への思いは尚更である。

 田舎なれどもサーハーエ♪ 南部の邦はサー♪
   西も東もサーハー♪ 金のやま♪ コーラサンサーエ♪

2003.2.23

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2002年12月30日 (月)

正月に読んでみたい童話 「菩提樹の蔭」

   唐突に童話の話で恐縮ですが、近頃はなんだか優しいばかりの筋書きの童話が書店の店頭平積みで目立つような気がしてます。 物語だけでなく本の中の絵も訳のわからんような曖昧なイメージ表現のものが目立つような気がしますが、童話ってのはアンデルセンにせよイソップにせよ世の闇の姿を子どもに教えるという意味も持っていましたよね。
 
 少し古いけれど、中勘助という作家。 「銀の匙」の作者として知られている寡作な人物ですが、この人の手になる「菩提樹の蔭」という出色の作品があります。
 これは最初、親友の愛娘へ語り聞かせた独創の童話を、やがて成人し家庭を持って人生に悩むようになった同じその娘へ、大人のためのメルヘンの形に書き改めて与えたものだということです。
 
「菩提樹の蔭」の粗筋は、概略以下のようなものです。
 
 物語はインドの高名な盲目の彫刻家に弟子入りした天涯孤独の若者と母を知らないその師匠の娘との秘められた恋に始まります。
 彫刻家の家は、生い茂る緑によって「菩提樹の家」と呼び習わされています。
 作品の中では突然の熱病による娘の死が語られ、その生前の面影を今に遺すべく盲目の父の手になる彫像の製作と完成とに物語のクライマックスのピークの1つを持ちます。 
 このとき若者は人間に許される限界を超えた望みを抱き、密かに神に願いをかけます。
 その人間の分を超えた願いに向けられた神の怒りによって彫像には7年間の生命を与えられ、何も知らない人々の間で、父匠はその彫刻家の名声をますます絶大なものとします。 
 その傍ら、若者は生命を取り戻したかつての恋人の記憶の中に自分達の愛だけが甦らない事実に直面し、ひたすらに喪われた愛の再構築を試みるのでした。
 
 盲目の彫刻師が、自分の手になる作品であり かつ我が子でもある美貌の娘の嫁ぎ先を、著名で裕福な名士の許に決定した時、若者は父匠に自分が神と交わした誓いを告白して自分との婚姻の許しを得ようとします。 しかし、神との契約の秘密を告白した若者に対して、父師は自分の超絶した技量、すなわち、彫像にさへ生命を与え得る芸術の極致の技を否定する横恋慕の言い掛りとして理解し、この恩知らずの若者の追放を決定します。
 若者は娘を道連れた死を選択しようとするのですが、掛けられた神の呪いはそれを許さず、事情を知らない娘の不信をも買ってしまいます。 最後の勇気を振り絞った若者は父師の許に戻り、炎天下に五体投地して自分の真実を告白するのですが、理解を超える言い訳として師と愛娘の双方から拒絶され、彼は菩提樹の家から追放されます。
 
 諸国をあてなく放浪する若者は、ふとした偶然からマンゴーの木の下に打ち捨てられた赤子を拾います。 それは若者の追放後に誕生し、怒り狂った父師によって容赦なくうち捨てられた、若者あの娘との間に産まれた子供なのでありました。

 満月の夜、赤児を抱いた巡礼姿の若者は裕福な生活を送っている娘の許を訪ねます。 赤児を腕に抱き取った娘はその朝に7年の猶予の満了によって素(もと)の石に戻り、胸に抱かれ乳房を口に含んだまま幼児は息絶え、その朝、菩提樹に寄りかかるようにしてあの若者もまた、息絶えていたのでありました。
 
 
・・・ふう。
 
 柄にあわず童話の抄訳に挑戦して赤恥をさらしました。 失礼。
 
 近頃では「きけわだつみのこえの戦後史」で評判が地に堕ちてしまったような岩波書店ですが、名作・古典の仮名づかい・漢字を読みやすく改め、本当に大切な作品と信じるものを世に贈りつづける姿勢は、流石のものと思っています。
 
菩提樹の蔭 他2編 中勘助 ISBN4-00-310513-3 \500+tax
(2002.12.30)

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