2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
フォト
無料ブログはココログ

ブログの起点

15年も前の事など

« 越冬蜂の巣 | トップページ | 里山の新規手入れ地 »

2007年3月 1日 (木)

早春賦

春は名のみの・・・とくれば、そりゃもうあ~た、懐メロ中の懐メロ。 数多(あまた)あるナツメロの中でもカビが生えてまさにコケ生(む)すような古典中の古典だと思い親しみ馴染んできた歌なのだが、ふと今日になって賦という文字に疑問を持つようになってしまった。
 「賦」というのは歌のことだ という小学校教諭の教えをそのまま鵜呑みにして50年余なんの疑問も持たないできてしまった。 

 この季節、インターネットで卒業式や別れにちなんだ歌を探しあるいて、鉄幹の「人を恋ふる歌」や、それと同じ旋律の寮歌の秀作「行春哀歌」のMIDI演奏を聴いたり、荒城の月白雲の城などを聴き漁っているうちに、この早春賦という定番唱歌にゆきついたのだが、あれ?「賦」ってのは本当はどういう意味だったんだろうという50年の疑問に目覚めてしまったって訳。  あー よく息が続いたけど、息継ぎの難しい文を書くやつは頭がわるいって本当だ。

でっ
 大体が「賦」って字には「月賦」とかいうような使われ方があって、1つのものを割ることに関係する言葉だという印象がある。 それがどういう訳で「歌」に関係することになるんだろう? ってのが疑問の発端だ。
調べてみると辞書での「賦」の説明はこうなっている

【漢文の韻文体の一。「離騒」「楚辞」およびその流れをくむもの。漢代に盛行し、四六駢儷体(しろくべんれいたい)を生む母体となった。対句を多く含み、句末は韻を踏む。】

 ふうん・・・ なんか、こう、分かったような分からんような御高説を聞いた気分でなんとなく納得してしまいそうな危うさがあるのだが、この日本語の唱歌「早春賦」が賦という漢文詩の形式で書かれているとは到底思えない。
 ならば「賦」という題をつけた作詞家吉丸一昌氏は嘘をついているという事になるのだろうか? そんなバカな話しはあの穂高を仰ぐ安曇野を歌ったこの名曲には似合わない。 きっと本当の意味をさがせばちゃんと納得できる答えにたどりつけるはずだ。
 まあ、そんないつもの他愛のない意地っぱり根性が頭をもたげてきたところで、一番手軽なオンライン百科辞典をチェックしてみたら おー 一発でビンゴ。

(ふ)とは、中国の韻文における文体の一つ。抒情詩的要素が少なく、事物を羅列的に描写する。事物の名前を列挙することを特徴とするので、日本では古来、かぞえうたと称された。】

 そうか、月賦のように分割して(笑)支払い回数を数え上げる「賦」というのは日本ではカゾエウタであったのか。 
 風の寒さの中に春のしるしを数え上げれば、氷解け去り葦は角ぐんでいる、とは言えまだまだ時は至らず、冬のしるしを数え上げれば鶯さへも声を抑えているではないか、胸せかるる思いはつのるばかりなのだが と理解すれば、早春賦はまさしく「賦」であったのだと理解がちゃんと腑におちた(汗)・・・・失礼。 落ちたところで 石を投げられる前にそろそろ寝るべ。

 でもさ、もうとっくに春だよ。 家のサクランボウの花は昨日あたりが満開だった。 例年なら花のまわりにミツバチがうるさいくらいに飛び回っていたものだが、今年は蜂さん置いてけぼりをくってしまったみたいだ。 今朝、家内がティシューでぼんぼんをつくって受粉させているみたいだったけど、今年もちゃんと赤いサクランボが実るかな♪

(07.08.06 文言1部訂正、リンク抹消)

« 越冬蜂の巣 | トップページ | 里山の新規手入れ地 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 越冬蜂の巣 | トップページ | 里山の新規手入れ地 »