2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
フォト
無料ブログはココログ

ブログの起点

15年も前の事など

« 2006年2月 | トップページ | 2006年5月 »

2006年3月

2006年3月31日 (金)

緋寒桜

昨年10月に日高の大規模店舗開発地で伐採された桜の枝、と言っても短径45cm長径56cmという枝だが、それをボンド封じで乾燥していたものにひび割れが見つかったので心材と白太部分を切り離すことにした。 電気チェンソーで挽き割り芯の部分だけにしてみたら随分と軽くなってしまった。
 http://kobikiya.hp.infoseek.co.jp/woodturning060331.htm
芯材だけでなく、白太部分に注目した材の保管方法も工夫してみよう。 楽しみのネタはどこにでもみつかるものだ。

2006年3月29日 (水)

東風吹かば・・・

思いついて発作的に紅梅の板をバンドソーで挽いてボールペンをつくった。
 この紅梅は近所のオヤジさんが庭の木を自分で伐って軒下に4~5年放置したものだったとか。 玄関前に杉のフクロウや桜の名札を出しておいたら気に入っていただけたようで、この紅梅をくださった。 2つ割にしてあったのだが、それにしてもしかし、とにかく、割れがひどい。 果たして器になどできるものか? と、せっかく頂いた材を持て余し気味にしていたのだが、何のことはないボールペンならほんの僅かな素材で作ることができる。

試してみたら紅梅の紅色がまだ材の中にも残っていてなんとも美しい。明日になったら、この材をくださったオヤジさんに記念に差し上げようと思う。
0292_1

2006年3月16日 (木)

欅の器(2)

久しぶりに朝から木工旋盤を回した。 動機は・・・欅の根株にひび割れを発見したため、放置しておいては勿体無い・・・という、至って不純なケチくさい内容だ。
 直径45cm程度のかわいい根株だが、それでも半割りにしたものを持ち上げるだけで結構な力が要る。 こういう材を挽き割るには14インチバンドソーでは危なすぎる。 やはりチェンソーになるのだが、住宅地なのでエンジンをぶん回すわけにいかず、またしても電気式チェンソーのお世話になる。
 このチェンソーもスチールE140を改造、つまり、25AP用のスプロケットを輸入して交換、ガイドバーをカナダのキャノンバー(ダイムチップ)にしてソーチェンを研ぎなおしたもの。
  チャップスをつけて生分解性オイルを補充。 これで欅の生木も気持ちよく安全に挽き割れる。

 木工旋盤について浜松で教わったことはあらかた忘れてしまっているのだが、色々と考えながら試行錯誤をしてゆくうちにふと何かを思い出した気になったりする。 

 作業経過は無料ホームページスペースに記録しておいた。  今日は桐油でのオイルフィニッシュだけとして、数日は乾燥収縮経過を観察するつもり。

http://kobikiya.hp.infoseek.co.jp/woodturning060316.htm

家内のキルトも順調に進んでいるようだ。

2006年3月 4日 (土)

ドッグラン

 去年の11月、突然に市役所から連絡が入って、5年も以前に署名をあつめて請願したドッグランが川越の地に実現するという話をもらった。 ついては請願者の代表の一人として面談したいと。
 請願当時、署名に応じた人々の家の若くて元気だった飼い犬たちもそれだけ老いてしまっている。 若いリーダーの一人は他界し、また別のリーダーは他県に別宅を構え既にこの地域の住人とは呼べなくなっている。 
 既に実体を喪ってしまっているグループである。 しかも実現される場所は請願当該地域でなく、そこから4km以上も離れた立地条件というハンディを与えられたドッグランである。 いくら昔の請願母体であったからと言って、果たしてどういう継続性を持たせ得ると考えているのだろう、市役所としては。

 なによりも不安を感じるのは、ドッグランというものに対する理解の浅さである。
 理解浅いままに 綺麗事としての「公園の開放性」を打ち出そうとしている原則的公園管理への考え方に大きな不安が残るのだ。
 街の小公園という、優れて地域限定性をもった公共の場所にあってさへ、その一般論的な要請である開放性と「地域エゴ」と呼ばれることのある保安・治安上の要請である閉鎖性とのバランスが常に問われている。
 まして専ら犬の飼い主たちの為の場であるドッグランが、脳天気な開放性を許容してしまっては持続可能な訳がない。
 小江戸の名を冠した犬猫CAPSを実施している地域団体の代表者と昨日面談した。 いや、面談を受けたというほうが正しいのかもしれない。 互いに応援しあう関係を構築できそうな気がする。 地域というものを実体あらしめるための、これも小さな試みの1つか。
 今、この時期に市役所の方針を変えてもらわなければ、この試みは確実に破綻する。

----

上はBLOGの予約機能をつかって3月4日に公開する指定をしておいた記事だ。 いったい何時書いたものだったか記憶は余り定かでない。 たしか2月のはじめごろに、川越ドッグラン24時間開放という方針を聞いて書き留めたものだったと記憶。
 自分の見方が、いや、時間の経過が、どの程度の嘘を吐くものか見定めてみたい、という屈折した思いもあったが、実際は公園オープン当日まで市役所から公表を口止めされていたというのが本当の所だ。
 以後幾度か市役所との会合を繰り返した。
その都度、「ハードルを少し高くして一般開放し参加者の様子を確認しつつ徐々にハードルを緩めるのであればまだしも、最初にフリーパスとして開放してしまってからでは収拾のつかない混乱を招く懼れがある」と主張してきた。

 今日、地元TVを含めた開園式典で、幸いにして私達の要請を全面的に市が受け容れてくれたことが了解され、ドッグランの利用規定にもその文が明記されていることの確認がとれた。 その他一般として式典に参加し、我が家の犬達も暖かい陽光の中を久しぶりのドッグランの自侭な空間の伸びやかさを満喫することができた。

eddyindogrun
 家内が一番よろこんでいるのは、犬づきあいの苦手な黒ラブのエディが嬉しそうに皆と協調して遊びまわることを覚えたという点だ。  本当によかった。  誰にという訳でもなく、ただ、感謝。

2006年3月 3日 (金)

駄洒落

オヤジ・ギャグとか駄洒落とか言う類のシロモノの中には、時として日本語に組み込まれた音・訓という「よみ」の構造と、そこから派生する連想の鎖の長さを競うようなものがある。 そのギャグが考案された時代には明らかにギャグとして認識され言葉の遊びとして扱われていたものが、その言葉の意味の伝承が等閑にされ、発想の面白さを離れ権威めいた装飾をほどこされ大手を振って罷り通ってしまうものがある。
 その良い例のひとつ、といっても構わないのだろう事例の中に古代日本の寺社建築で使用される巨木をヤマ奥から運ぶのに利用されたといわれる「修羅」という運搬用具の名称がある。
 実は、修羅という呼び方を一般に運搬用具の名称として規定してよいのかどうかという点にも「水修羅」のような事例を挙げて疑義を提示することはできるのだが、そもそも修羅、すなわち仏典に登場する阿修羅がなぜ重量物運搬用具という概念に結びついたのかと言う点により大きな関心が湧く。
 要は説話にある帝釈天と阿修羅との闘いの中で「ついに阿修羅が帝釈天を動かした」というただそれだけの言葉の断片がこの駄洒落の素になっているという事だ。 
 帝釈をタイシャクと読み、そのタイが大に、シャクが石に転じることを知れば、帝釈が大石に転じて大きな石を動かしたものが阿修羅すなわち修羅であるというとるに足らない言葉の由来を洞察することは容易である。
 しかし、その由来のいい加減さと詰まらなさとを隠して、さも有難そうに巨石を運搬する用具に「修羅」という呼び名があるとノタマってみせる快感はどういう品位のものだろうか。 いっその事、修羅の語源は♪金比羅船フネの♪シュラシュシュシュなのだとおどけてみせたほうが余程誠実なのではないか。
 う〜ん。 そんなくだらないことを一々目くじらを立てて言挙げするのも本当はやはり躊躇われるのだが、虚空蔵尊が漆工芸の守護仏だ、などというつまらぬ駄洒落を真にうけたもっともらしい解説を聞かされたりすると、もっと素直にオヤジギャグを楽しめよ と声に出して言ってみたくなることもあるのだった。

 ん。  つまらん事を書いてしまったが、書いてしまったからには投稿する。 誰かヒマな人でも居て読んでくれれば良いのだが(汗)

 明日はいよいよドッグランのオープン日だ。

2006年3月 2日 (木)

秘密

半ば公然の事として理解されながら「それは秘密である」としなければならない事ってのが世の中に結構あるような木がする。 ちゃった、気がする。
 広葉樹や松などのような癖のある重心の推測が難しい樹種が枯損木となったとき、それをどうやって処分するか。  安全を優先させて考えるなら、そういう木には手を着けるな というのがセオリーだ。 つまり、重機を利用するのでない限り、そういう木を安全確実に処分する一般的な方法はない。
 もしどうしてもそうした枯損木を処分する必要があり、それも全く重機を使えない状況で処置するというなら、「禁じ手」である「元玉落し」を実行することになるかも知れない。 数日前、雨の中でそれに近い状況下、本職の仕事を一緒にやる経験を持つことができた。 まあ、本職も繰り返し言っていたように、「こういうことはやってはいけない」事なのではあるが。

 実は私も以前から元玉落しは繰り返しやってきた事だった。 そのとき良く自分で切断したチェンソーバーを樹芯の切断時に木自身の重力によって締め付けられ、木に取られてしまうという経験も重ねてきた。 発現されるのは数トンの圧搾力となる。

 当然、最初から救出用のチェンソーを準備しておく。
 実際には枝で作ったクサビを打ち込むことで伐採木にバーを挟まれるような事態をあらかじめ予防しておいたり、木回しや現場で作ったバカ棒で救出できる場合がほとんどではある。
 しかし、今回見たプロの技はそれと一味違った「知恵のある」方法論だった。
 なにがどういう風に知恵があるのか。
 うーん。 知ってしまえば当たり前のことなのだが、重力は上から下に向かう。

 他の木に斜めに寄りかかって立ち枯れている偏重心の木での重力分布は幹を軸方向に圧搾する方向を持つ訳だが、切断ポイントでベクトル分解すればそれは下向きのベクトルと水平方向に根元株を押す力とに分解されるわけだ。
 だから、そういう木を伐る場合は通常の玉伐りのような丸太の切断面を切り出すのではなく、掛かっている木の状況に従った垂直線の方向で伐る。 無論、単に伐るのではなく、側面から切り込んで樹芯の状況を確認しながら、どの程度まで切断すればこの幹が分離されるかを推測しながら伐る。 それも、上から伐るか下から伐るか状況を判断しながらベクトル図を考えながら作業する。
 言葉で書くと簡単だが、これは実は難しい。 斜面での観測は水平・垂直の感覚が頼りにならないものだし、何よりも、同じ状況というものが再現されることのない自然の環境では安易なノウハウ的「知識」に頼るのは危険である。
 だから私の場合は安全対策として予め枯損木の高い位置にロープでテンションをかけておかないと不安なのだが、プロはそんな事をしていては時間単価の仕事で生活などできるものかと笑う。
 うーん、そういう事でいいのだろうか。 ちょっと問題が違うような気がするのだけれど、ヤマにある仕事ってのはそういうものだと割り切る局面も仕方が無いのかもしれない。
 今回の相手は素人だったと思い出してくれたプロは、その後の始末方法では私のチルホール+滑車・スリングベルトの併用を認めて一緒にやってくれた。
 実は、プロが切り倒した松の巨木(?)が隣の大きな楢の木の太い枝に引っかかって宙吊り状態になってしまったとき、隣のヒノキの幹からチルホールで引き落とすという他人には余り見せたくない荒業もやってしまった。

ん。 これは秘密なんだよ 本当は。 

« 2006年2月 | トップページ | 2006年5月 »