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15年も前の事など

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2005年10月

2005年10月25日 (火)

信用分割払いの支払い日

今日は耕耘機の分割払いの第2回支払い日。  証書もなし、保証人もなし、何もなしのまるっきりの信用で2桁万円の耕耘機を売るほうも売るほうだ。 へ? 買う方の悪辣さを棚に上げるな? あ、ごもっとも。

 しかし、最初に電話で問い合わせたときには、クレジット払いができるということだったのよね。

だからアレコレと商品を選んで、いざ支払いとなったところで「ウチはクレジット扱ってないんだよ」とのたまう。 聞かされたほうはのけぞったね うん。
だからまるっきりの信用で売るからお前の支払い能力で適当に分割払いにしていいヨ とまで言われたら、そりゃあもう・・・・(笑)

 んな訳で、最初に買ったチェーンソーは無事に支払いが終わり、続いて耕耘機を購入。 今日がその2回目の支払日だったのだが、店のオヤジさん、いつまで経っても私の名前を覚えてくれない。 よくまあ、そんなんで商売ができるね と笑ったら、まさか家屋敷かついで逃げ出すわけもないだろう とタカを括ったような言い方で返された。

 あ、いいな こういう付き合いができるってのは やっぱしここは城下町。 旧いってことが必ずしも悪いってことではなかったんだ などと都合の良いことを呟いたりする。

2005年10月23日 (日)

日高市旭ヶ丘の緑地

01 日高市の緑地でショッピング・モール開発の為に喪われる山桜の騒動があった。
 今日、実際に現地に行って見たのだが、現地には特に生態系として見るべきものがあったというわけではなく、建物を撤去した跡の広い草地に旧施設内の桜並木だけがのこされていた という状況だったようだ。
 桜は確かに人心に訴求する力のある樹だが、当該施設の周辺には今でも多くの緑地が残されている現状である。

05
桜は桜。 伐ってしまったなら、その活きた使い方を考えるべきだろうと私は思う。


桜にせよ欅にせよ、材として流通するなら林家も大事に生態系を管理保全し、山桜も再生される筈だ。 

08
 さて、この桜、器に挽くか皿にするか。
 
いずれにせよ、在りし日の面影に恥じない作品にしたいものだ。

2005年10月 8日 (土)

着メロ考 ( 05/05/16)

着メロという言葉に漸く違和感を感じなくなってはきたものの、実際に自分の携帯電話で着メロなるものを楽しむような不埒な企みに挑戦することになろうとは思っていなかった。
 
 昨今の対中国・韓国の外交問題報道にからんで、なにかと思いが巡るのは詩人としての宮沢賢治の事跡であることに気がついた。
 彼は生涯に8つの自作詩に曲をつけ、子供達に明るい声で元気に歌わせていたというが、自作のメロディとして現在知られているのは2曲だけであるという。 
 まあ、彼の詩に誰が曲をつけたかという事それ自体はどうでも良いことかも知れない。 
 その中で、とりわけ美しいメロディを与えられた詩がある。  そのことが今回のブツクサのテーマだ。
 
 日は君臨(くんりん)し 輝きは
  白金(はっきん)の雨 そそぎたり
 我等は黒き 土にふし
  まことの草の 種まけり
 
4年ほど前、河田宏氏の満州建国大学物語という本を読んだときに日満鮮出身の学生達に愛されたこの詩のメロディの事が紹介されていたが、読んだ当時は本というメディアのせいもあって、まあそんなものかという程度にしか了解していなかった。
 今日、思い立って「日は君臨し」でGoogle検索をかけてみたところ、なんと歌詞附きでMIDIが提供されているばかりでなく、数社の携帯電話用の着メロとしても、公開されていることを知った。
 
http://www.ihatov.cc/k-tai/chakumelo.html

 今、現代の満州の地に、植林の夢を実現したいとする人々が居る。 そのなかに、事業計画発足の当初、建大の卒業生たちが居たとしても不思議はない。 その建大生達が描いた夢のひとつが満州を緑の野に戻すということであった。 
 日本人は当時も今も、自分達が足跡を残す地にはどこにでも植林をしたがってきた民族であるという。
 
 かつての朝鮮総督、阿部信行が建大生達に伝えた訓示がある。 朝鮮総督である彼を表敬訪問したラマ僧に「あのヤマを見てください、植林に努力した結果、昔の朝鮮のハゲ山は緑の山々に変りました」 
と話したところ、
「ありがたい事です。朝鮮の人々の心のなかにも、緑を植えていただいたことでしょう」
と言われ、直ぐには返す言葉がなかった と言うものだったそうである。
 
 おりにふれ、このひとつの寓話を、携帯に転送した着メロが思い出させてくれるかも知れない。

薪炭考 (05.10.04)

二宮金次郎ってのが最近は見直されはじめているようだがショイコ(背負子)に薪を背負いながら下山の道すがらに読書している姿の銅像は色々と批判も受けてきたと記憶。
 
 あの薪の重さはどのくらいだったのかしら。
 
 手斧で伐採して45cm程度に揃えた薪にしたもので、おそらく重くても15kG程度ではないだろうか。
 作った銅像作家の好みだけで決まってしまうのかもしれないが、あの薪は本当はどの程度の太さだったのかしら。
 
 樹が余り太く成長してしまっていたら普通の人にはちょっと手斧やノコギリで伐り倒すことが難しくなってくる。 それだけでなくて、銅像にある姿のように薪として背負う場合にも、50年・60年の木は太すぎるし重過ぎる。 二宮金次郎ではなくて二の宮金太郎にならないと無事に下山できないかもしれない。
 んな訳で、里山の薪炭林では15年から20年の周期で木々を伐採して商品化して販売してきた。 このあたりの年数が薪にするのに手ごろな太さの材を得る目安だったから。
 無論、風で倒れた木や折れた枝も大切な燃料資源として里に売れる商品だったけれど、燃料効率に着目すると薪というのは必ずしもベストな商品ではない。 第一、薪に含まれる水分が重さに反映され運搬の支障ともなるし、下手な管理をすると薪にカビが生えて不衛生でもある。
 
 だから、山で伐採した木はその場で炭にして里に下ろすと言うことが普通に行われていた。
 
 生木の比重は約1だが、乾燥させた薪にして約0.5(材や乾燥の度合いによる)、これを炭にすることで楢の場合であれば元の材の約7分の1程度の重さにすることができる。 火力も当然喪われる部分がある訳だが、喪われるエネルギーの比率についての知識は持ち合わせていない。 

火力が必要な風呂焚きやメシ炊きに炭が使われることはなく、屋内で長時間適当な暖をとるための安定した火力を必要とする火鉢に薪が使われることもない。
 
 非常に大雑把に、1ヘクタールの山林伐採で得られる枝幹量160トンから概算で30tの炭を得ることができたとされるが、この炭を使ってモノノケ姫の舞台となった「たたら製鉄」にあるような「鉄」を作るとき、「倉林たたら」と呼ばれる方法(技術)ではようやく0.1トンの鉄を得たとされている。 
 より洗練された一般的な「たたら」では同じ量の炭で2トンの鉄を得られるようになった。 効率でいうなら20倍の進歩ということになる。 「菅谷たたら」と呼ばれる技法によれば6トンの炭で同じ量の鉄を得られたという。 効率は実に50倍である。
 当然のことだが、日本だけでなく、ヨーロッパにも薪炭林の歴史がある。 中国や朝鮮に禿山が多く遺されたのは、かつての製鉄の歴史に縁るものであると説明されているが、実は日本も江戸期の終わりごろには禿山の国になっていたという指摘をする学者も居る点にも留意しておきたい。
 
 総合学習支援の校外授業で預かった3人の中学1年生を相手に、上のようなことを実際の里山を散策しながら説明しようと試みた。
 縷々解説を試みようとした最初の時点で「あの、比重って何ですか」と聞かれて挫折した。
 なまじヤマや木のことを話すよりも、生徒のことを先に学んでおくべきだった と反省することしきりである

骨を拾うということ (05.09.25)

昨日のNHK番組。 僧侶がフィリッピン遺骨収集の体験を語るというインタビュー番組にひどく感じるものがあった。
 第2次大戦末期、フィリピンの巨大な洞窟に逃れ隠れた日本人1000人が、追い詰めて迫る米軍から火炎放射器とドラム缶を投げ込まれ、焼き殺された。 ただ1つの出入り口に殺到し炎熱地獄から逃げようとした人たちは待ち構えていた米軍の機関銃に殺しつくされた、その現場であったそうな。

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