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15年も前の事など

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2003年3月

2003年3月13日 (木)

富岡松五郎伝

 幾度となく板妻の「無法松の一生」を総括した記事をWebサイトの上で探してみたのだが、今のところ、これと言って優れたものには未だに出会っていない。

唯一、それらしいか と思われる内容は以下のようなものであった。

---- 引用開始 ----

 無法松のかなしみ 玉木研二氏(毎日 西部報道部)
  http://www.mainichi.co.jp/eye/hassinbako/2002/11/24.html

  北九州の作家・岩下俊作の「富島松五郎伝」は戦前から「無法松の一生」の名で何度も映画や芝居になり、筋立ては今も広く知られている。 
  気性は荒く情にもろい小倉の車夫・松五郎。夫を失い、一人息子を育てる 陸軍大尉夫人。松五郎はひそかに夫人に寄せる思いに苦しみながら、その家庭を守るため献身する。
 【略】
  だが父と子は当然離れゆくものではないのか。松五郎は敏雄の実父ではないが、まぎれもなく育ての父だ。 晩年酒に身を滅ぼした彼の遺品から敏雄名義で長年積み立てた多額の通帳が出てくる。物語はそこで終わる。
  「父の役割を」の掛け声に焦っても仕方がない。懸命に生き、静かにほほ笑んでいればいい。   

---- 引用終了----

これは・・・随分と違う。 そう思った。

 大切なものが欠落しているのではないだろうか。

 松五郎の気の荒さは、彼が車夫という職業に就いた事ひとつを取り上げても理解できる。 この時代この仕事につくという事は、すなわち、その過酷な労働条件ゆへに平均してわずかに3年という生存期間しか許されない「車夫」の世界に身を投じるのだという意味があった事はイザベラ・バード女史の日本奥地紀行からも伺える。
 この、命を的(まと)にする生き方(あるいは同じことだが死に方)から得られる現金収入は、明治10年の頃の荷駄馬賃料の半額程度であったという。

 上での引用文にみられるような「酒に身を滅ぼす」までもなく、時代の業病である結核肺炎が、その過重な労働に見合わぬ栄養の質とそのバランスとによって、実に簡単に屈強な者たちの生命をも奪っていったのだ。
 何よりもこの事は世間に広く知られている経験法則であった。

 世を捨て身を捨てた者、富島松五郎が確実な現金収入の途として「車夫」になる事を決意したとき、おそらく彼の意識には日本社会の上層に対する深い不信と疑いとを持っていたのではないだろうか。 
 毎晩の俥の客達が果たしてその社会的信用や尊敬に値するものであるか否か、享受している給金に相応しい働きをしているものかどうか、俥を牽きつつその重さを量っていたのではなかったろうか。 

 ある晩のこと、松五郎は俥の客となった吉岡に喧嘩を売る。中身の無い空威張り野郎だと頭から決め込んで、客である立派な身なりの紳士を恫喝して幾許かの金を巻き上げようとするのである。
 どうせこいつもニセモノだ。 こいつ等の懐の中の財布の中味は俺のものにしても一向に構わないんだ。

 しかし、松五郎はものの見事に吉岡に打ち据えられる。 数日は足腰が立たぬほど完璧に打ち負かされ、医師の手当てを受けさせられたことを知った彼は、初めて吉岡が陸軍大尉であり、かつ、警察の剣道師範を勤める漢であることを知る。
 そして、無法にも自分が恫喝した相手から自分が人間として扱われたことを知るのである。
 当時、世の中で最も威張り腐っている連中が警官であった。その警官を指導する立場にある吉岡という男が、身を捨てて生きることを選んだこの自分という者を、ひとりの人間として扱ったことへの素直な感動があったのだろう。 そして、明治と言う時代に生きた彼の中でその感動は「忠義」という意識に転化したのではなかったろうか。
 くだらない世の中だ。 くそ面白くもない人生だ。 そう決めてかかっていた者が、本来そうあってほしいと願っていた通りの姿をした世の中の「上層」に触れた、と信じた。 
 夫を失い、一人息子を育てる陸軍大尉吉岡夫人に、松五郎は明治人の忠義を尽くそうと願ったのではないだろうか。 彼の思慕の念は決して吉岡夫人への恋ではなかったのではないか。 それはむしろ、彼の愛国心 という言い方でしか表現できないものではなかったのだろうか。
 忘れ形見の敏雄少年は、長ずるに従って松五郎をうとましく感じ疎遠となっていった。 久しぶりの帰郷で小倉祇園太鼓を舞い打つ松五郎を、ただ同行した高校教師の感動を通してしか理解できない少年に育っていた。

 戯画的に言うなら、この敏雄少年は、やがて大正時代を荷う青年へと成長して行った。 土着の文物を軽蔑し、紙と活字で描かれた西欧への憧憬を語ることが文化であると錯覚する大正ロマンの時代を創りだした。
 再び故郷に放棄され遺棄された松五郎のような者達はついに下克上の5・15、更に2・26へと突進んで行く他になかったのではないだろうか。 突撃の日、橘孝三郎は満州に逃れていったという。

 最後の場面で、吉岡敏雄名義で長年積み立てられた多額の預金通帳が松五郎の遺物の柳行李から出てくる場面では、劇場のあちこちで遠慮がちにすすり泣く音がしていた。
 今、もしこの映画を若者達の前に上映したなら、一体どんな感想が聞かされることだろうか。
 そうおもえば、昭和さへも 遠くなりつつある事に気がつく。 小熊英二氏の著作によく引用される丸山真男などのような戦後思想界の人物群像に、私はぼんぼんの吉岡敏雄の姿をみたような気がしてならない。

2003.3.13

2003年3月 9日 (日)

娘道成寺

http://www.netlaputa.ne.jp/~AKITSUKI/Kabuki/buyou/doujyouji.html

今晩、はじめて市川崑監督の「娘道成寺」という作品を見た。
 
道成寺といえば、『鐘に恨みは数々ござる』と始まる長唄でお馴染みの、安珍・清姫の霊異の恋の物語である。 しかし、この映像作品は市川崑の新解釈によるものとの字幕解説があり、おもわずこのモノクロ画面の操り人形劇にTVのチャンネルを固定してしまった。

 書き割りの、山寺に登る長い石階段に桜の花びらが舞い散るカットからこの映画は始まっている。 物語の狂言回しはヒョウキンな表情をした寺の小僧達である。

鐘造りの若者が思い悩んでいる。 
 鋳かけた大鐘が仕上がりの前に割れてしまい、幾度試みても依頼された鐘が出来上がらないのだ。 新築の鐘楼は既に完成しており、皆は鐘の出来上がるのを千秋の思いで待ちわびている。
 思い余って願をかける観音菩薩と、それを見守り、密かに若者に思いをよせる村娘の姿とが、操り人形の糸のもつれる有様さへも計算されているかのように、決して互いに触れ合うことのない画像を重ねてゆく。

 若者の祈願する姿を見つめる娘。 やがて、観音菩薩の前に同じ願を重ねる村娘の姿が映し出される。

 いかなる祈りが通じたものか、ある満月の夜、いづこともなく飛来した何者かが鋳型の炉に飛込む。 それを目撃した若者は今度こそ大鐘が鋳あがることを確信する。
 予想どおり見事に出来上がった鐘は真新しい鐘楼に下げられ、晴れの日を迎えた寺の僧がこれを撞く。 しかしこれはどうしたことか、この見事な鐘はなんとも音色が冴えない。 参集した村人達は皆、驚き怪しむ。
 ふと思いついた若者は自分の手で鐘を撞いてみる。 手のひらを反したように鐘は見事な余韻を響かせて四方の里の村々に落成の喜びを伝える。
 若者が怪しみ探してみれば、自分が願をかけた観音菩薩の前にあの村娘は祈る姿のまま息絶えていたのであった。

恋の手習い つい見習いて
  誰に見しょとて 紅鉄漿つきょぞ
    みんな主への心中だて

 余談だが、道成寺は白蛇伝の日本版だとも言われている。

 能舞台などで見る道成寺では最後の場面の「鐘入り」によって、清姫である蛇が鐘にまきついて中に隠れた安珍を焼き殺すという激しい展開となっている。

この大元となった中国の白蛇伝は 元は霊異の物語である。

 峨媚山の白蛇姫、白夫人(近代京劇での名は白素貞)は小青という娘(実は青蛇)を従え、人間の娘の姿を借りて人の世界に紛れ込む。 白素貞はやがて許仙という男に恋し、結婚して幸せな日々を送る。
 しかし、幸福な日は長く続かない。 偶然に出会った高僧・法海和尚が白素貞の正体を見破り、仕向けて端午の節句の祝い酒を白素亭に飲まる。 酔った白素貞は白蛇の正体を現し、それを目の当たりにした許仙は悲嘆と衝撃の余りに死んでしまう。 その命を取り戻す為に白素貞は命をかけて蓬莱山の百年に一輪しか咲かない蘇生花を取りに行く。
 この霊薬のお陰で生き返った許仙は自分を救った白素貞が蛇である事を怖れ、除霊師、法海 許仙を連れ戻す為に白素貞は金山寺へ向かうが、和尚は法力でこれを阻み、怒り狂う白素貞はあらゆる精霊たちを集めて金山寺を攻め立てた為、おびただしい修行僧や村人達の命が奪われる。
 
 近代化された白蛇伝の物語では、たとへ蛇妖怪であってもやはり白素亭が恋しいと気付いた許仙が、金山寺を抜け出して白素亭の元へと走る事によって終わる。
 しかし、この古い物語にはその歴史に相応しい種種のバリエーションが伝えられている。 許仙は法海に弟子入りし、出家。 数年後に座禅したまま大往生するという組み立てのものが原型に近いと思われるが、これは日本に伝来した「案珍・清姫」の道成寺の形とも異なっている。

当時の観客は市川崑監督の「娘道成寺」の中に何を見ただろうか。
 1947年 新東宝教育映画作品軍の慰問用の発注 GHQの検閲の結果、未発表となった作品であったとの事である。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhinex.htm
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin16.htm
http://www.jks.jp/white.htm
2003.03.09

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